2007/06/09

9,ストックを散策

 レーの街まで遊びに行った翌日はすっかり疲れが出てしまい、一日家でゆっくりしていた。高山病を克服したと調子に乗ったせいか・・・。

  ただ、また翌日にはすっきりしていたので、今日はストックの中にあるゴンパ(僧院)を訪れることにした。ギュルメットが連れて行ってくれるという。そし て、さらに、南インドの寄宿舎で学ぶ子どもたちから自分の家族へのレターやギフトなどをいくつも預かっていた私。この一つを同じ村の家族へ届けられると言 う。これは気を引き締めて行かなければ!


 ギュルメットのアンマ レー(=お母さんの意。レーは尊称)は、きっといつもの朝と同じように牛の乳搾りに精を出していた。緑の真新しい草を親牛に与え、子牛に少しおっぱいを飲 ませた後、子牛を綱で少し遠くにつないで、手馴れた手つきで乳搾りを始めた。時々親牛が反抗的な態度をとるも、アンマ レの手にかかるとおとなしくしているように感じる。やはり牛も心得たもので、上手に毎日乳搾りしてくれる人をよく信頼しているのだろう。ここにいた牛はイ ンド全般によくいる茶色いジャージー牛だった。いきなりヤクがいるわけではないようでちょっと残念!?。





  ストックゴンパまでは同じ村内ということで歩いていった。しかし、これが大きな間違いだった。というのも、やはり農村地帯の人々にとっての“歩いていけ る”という距離感は都会育ちの我々とは幾分異なっていて、案の定たくさん歩くことになったのだ。多分、高山病上がりの身体には想像以上に応えたのだろう。


  ようやく辿り着いたゴンパにはあまり人気がなかった。入り口に鍵までかかっていて中には入れそうにない様子。ギュルメットは誰かラマ ジー(チベット仏教僧。ジーはヒンディーで語の尊称。)を探しに行ってくれた。しばらくして戻ったギュルメットは、年老いてはいるがエンジ色の袈裟を着 た、 少し体格のいいラマ ジーと一緒だった。“ジュレー”と挨拶し中に入れてもらった。








  ラダックにて初めて訪れたゴンパがここストックゴンパになった。でも、正直何を見るべきかもよく分からない自分がいる・・・。飾られているものや色彩と か、見ることは見るが、全くの勉強不足である。そして、ギュルメットもさほどガイドにならない・・・。ごめん、ギュルメット。あなたを責める資格は私には ない。それにしてももったいない。もう少し慣れてくれば、見所も分かってくるだろう。もっともラマ ジーに色々質問すればいいわけだし。今日のところはこんな程度の自分にあきらめよう。

 それでも、数日前までやっていた仏教徒の施設でのボランティアでは、毎日、朝夕欠かさずお祈りをしていたのだが、あの“テラワダ”と言われるいわゆる小乗仏教とは何かと違うことだけはよく分かった。

  ややこしい話だが、つい先日までは小乗仏教にどっぷり身を置いていたのに、今は“マハヤナ”つまり大乗仏教のど真ん中に身を置いているのだ。せっかく覚え かけていたパーリー語のお経も、ここでは唱えられていないのだ。とても好きだったので残念ではあるが、新しいチベット仏教のマントラなどを聞けたり、直に それらに触れられると思うと、密かに胸を躍らせていた。

 まあ、ゆっくり触れていこうではないか・・・。そう思った。


 次に、ボランティアしていた寄宿学校の子どものお父さんを訪ねた。同じ村で大工さんの仕事をしているという。ちょうどその作業中のところを直撃できた。笑顔がたまらないお茶目なお父さんだった。家の窓枠などちょっと飾り彫刻などを施したりしているようだった。


 昔、若かれし頃、私も家具職人を目指して働いていたことがあるので、ついつい嬉しくなってしまう。職人さんというのはどこの国に行っても気持ちがいい人が多い。

  事情を説明し、ギフトを渡した。思いのほか、お父さんは息子からのギフトを受け取っても、大喜びなどしせず、クールに喜んでいた。でも、かれこれ2、3年 は軽く会っていないはずなんだけどなぁ・・・。そうか、まあそういう反応もあるよな。まだラダックの人々の感情表現がつかみきれていない私。とにかく、何 だか、とっても落ち着いて受け取ったお父さんが印象に残った。






  来るだけで遠く感じた私。もう少しでレーから家の方面へ行くバスが来るはずだというので、それを待ってバスで帰ることにした。ギュルメットにとっては なんてことない帰り道かもしれないが、私には、この、なだらかだけどずっと登りの道を、また帰っていくエネルギーは残ってなかった。標高が高く、空気が薄 いとはなんと恐ろしいことか。こんな道もまともに歩けなくさせるのだ。

  先日まで、子ども達と毎日サッカーをして、あんなに走り回っていた自分を思い出しては、自分の誇りを取り戻したくなった。でも、情けないけどこれがが現 実。一応、同じくらいの標高である富士登山でも、嫌と言うほど思い知らされた経験もある。ここは無理せずやっていこう。ゆっくりゆっくり。


  終点となる村の一番奥の辺りに我らの家がある。そのバスを降りたところは谷間になっていて、中心の川沿いに小さな売店がある。インドによくある“キオス ク”風というかタバコや風というか、れいの何でも売ってる小さなお店の、ちょっと簡素なヴァージョン とでも言えばいいか。塩や洗剤やスナック菓子、飲み物などの最低限のものが売られている。一応、家のちょっと下にそういうものがあると知り安堵する。

  その脇で、ギュルメットのほか、同じく寄宿舎より帰省していた近所に住むジャヨ青年や、ワンボの実の弟のタニなどと一緒に、ちょっとその店の軒先でボーっ としていた。
 とは言え、二十歳そこそこの若いお兄さんたちとの会話は、ある程度で行き詰る・・・。私は君たちをこれ以上楽しませられない。許してね・・・と、今度は気にせず 会話なしでボォーっとしていた。


  というのも、ボーっとするには最高の大自然なのだから。横を流れる雪解けの川音に耳を傾け、手に取れそうなほど近く、どこまでも青い空を眺めていた。澄ん だ空気は、自分の耳に入る全ての音をサラウンドで聞かせてくれるスピーカーのように機能する。私の耳がいいのか、自然の音が美しいからか、よくわからなく なる。この空気感はなんと説明していいかわからない。のどかだとか、そういう雰囲気だけのものではないのだ。空気感がちがうとは、いったいどういう言葉を もって説明したらいいのか、全く見つからない。

 
 そんな私たちの近くで、プラ スチックの白い椅子に腰掛けながら談笑しているヨーロッパ系と思われる外国人登山者グループがいた。彼らは今からトレッキン グに行くようだ。ここは紛れもないストックカンギリ(標高6123m)の登山口。こんな風にいつでも外国人が入ってくる場所なのだと痛感する。

  いつか自分もあの山に登れたらどんなにか嬉しいだろう・・・と、氷河が残る山の頂上を見つめて いた。6123mとは、例えば、ここが東京だとしたら、富士山を仰ぎ見るような高さであるが、ここがすでに3500mほどの標高であるから、ストックカン ギリは富士山の頂上に登り、更にもう一つ富士山に登ろうとする状態とでも言おうか。なんとも、目の前にあるこの山は、今にも手が届きそうで、全く届かない ものに思えてきた。



 午後は、ワンボが家の周辺をいろいろ案内してくれた。



  家から少し歩いたところで、メーメー レー(おじいさん)と、アバ レー(お父さん)と、彼の従兄弟が牛の餌場の柵を修復すると言って出るところだった。すかさずついて行き、どんな作業をするのか拝見させてもらっ た。柵というのは石で作られたものだった。すごい、すべて自然の素材でそのまま作っているのだ。





  ワンボの提案で少し高いところから村を見渡すことになった。すぐ目の前の小高い丘に少し登ってみようという。こんな平地でもちょっと息が切れるから不安 ではあったが、こういうことには挑戦してみたくなる性分がある。砂っぽいような、岩がゴツゴツしたような斜面をゆっくりゆっくり登っていく。

 日本でも、毎月一度は必ず日帰りで低山登山に行く自分なので、多少できるとことろ見せたい・・・と言う虚栄心もがんばってしまう。でも、もうラダックへ来て4日目だけど、ちょっとの丘でさえこんなに息苦しいことに驚きを隠せない。

 そして、ワンボがここまでと決めていた見晴らし場のような岩までたどり着いたので、ようやく岩に腰を下ろした。苦労して登ってきて、見下ろした景色はこんな感じだった。



  眼下には、登ってきた丘の不毛な灰色に反して、一面は木々の緑や畑の若い芽が大地を覆いはじめていた。初日に高山病の夢うつつで遠くから聞こえてきてい た、土を耕す男達のやまぬ掛け声があったが、私が到着する前くらいから種まきがされていたから、すでにはやいところでは新芽が出ていた。そして、それらの 畑にはそれぞれ石か何かで垣根がつくられているのが見えた。家々はみな白い壁が緑に映えて美しい。すぐ下にはチョルテンと言われる小さな仏塔も見える。ワ ンボの家やギュルメットの家など教えてもらいながら、家周辺の全体像が見えてきた。



 下りたらあっという間だけど、下からは見えなかった小道が途中にあった。そっちの道にそれながら、つまらない冗談などを話しながら歩いた。ここは多くは牛やロバを連れて歩く道のようだ。
  ぐるっとまわってから戻ると、さっき見たチョルテン(仏塔)の所まで来た。ここはこの近所のいくつかの世帯で守っているコミュニティーのものだという。 その上にある小さなゴンパはやはり鍵がかかっていて入れなかったが、いつも順番で当番が決まっていて世話をしているという。近所のつながりが深いのだ。



  家のすぐ近くまで戻ってきたところで、さわやかな小川の通りに出た。あのストックカンギリの山から流れてくるこの水は、いくつも支流がありこうして家の 周辺をまんべんなく流れているようだ。日差しは強いが、小川沿いの木陰はなんとも涼しく気持ちがいい。下の谷間の川は本流だから音の迫力もすごかったが、 こっちの支流の小川もまた、せせらぎというにふさわしいきれいで冷たい川だ。


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