2007/06/12

11,シャンティ・ストゥーパ

 レーの街に来れば必ず立ち寄りたいのがネットカフェ。メインバザールに何件もあるので便利だ。ワンボのおすすめで一度行って見たネットカフェがなんとなく気に入った。一度気に入ると、そこばかりに足を運んでしまう私だ。どこにしてもちょっと高いのは気になるが、インド全般に比べて感じる、ラダックの物価の高さには幾分慣れてきた気もする。

 レーの街の中に、シャンティ・ストゥーパと言う仏塔があるという。しかも小高い丘の上にあると言うので歩いて登ってみることにした。ワンボが案内してくれるという。

 ちなみに、地元のラダックの人々はジャパニーズ・ゴンパとも言っているようだ。なぜかと言えば、日本人が創ったからだという。こんなラダックのようなへき地に、どなたか日本人が仏塔や寺を作ったのか。恐れ入ります。
 
 余談ではあるが、シャンティとはサンスクリット語で「平和」とか「平静」等の意味がある。ストゥーパはいわゆる仏塔のことだが、これは私たちにもなじみの深い仏教用語として、日本にも伝わっている。卒塔婆(そとば)である。日本では卒塔婆と言えば、お墓に立ててある木の板で、梵語などが書いてあるのが普通だが、元々、仏塔のように高く、立てる物からその意味合いや形が変化してインドから日本にもたどり着き、あのような卒塔婆の形になって言ったという。仏教を通しては、特に多くのサンスクリット語がそのまま日本にたどり着き、使っているものがあるのでとても面白い。
 
 さて、話を戻そう。

 いわゆるメインバザールあたりを通り過ぎ、チャングスパという辺りに入ると、こっちは驚くほど外国人向けの土産店やヨーロッパ仕立てのベーカリー、CDショップ、ネットカフェ、レストランにゲストハウスが軒を並べており驚いた。今まで見てきたレーの街とはちょっと違う雰囲気があり、ことに洗礼された小ぎれいなストリートに仕上がっているのだ。今までは特に地元の人々が行くような辺りを歩いていたということになるが、こんなにお洒落なショーウィンドウの店が続々と出てくるので何か拍子抜けしてしまった。なにせ想像もしていなかったのだ。
 お世辞ではなく、本当に東京の裏原宿とか言われても過言ではないほど小ぎれいなカフェまである。中には気の利いたソファーと、自由に読んでよい書棚があり、洋書がズラリと並んでいたりしているのだ。メニューもパスタやピザ、カプチーノからサンドウィッチ・・・。いやいや、本当にすごい。一件だけ気の利いた店があるのではなく、軒並みそのレベルの内容をそろえているのだ。
 それだけ外国人ツーリストの需要があり、ここまで発展してきたかと思うと、いいんだか悪いんだかよく分からないが、とにかくすごいと思った。
 
 ちなみに、こんなにいっぱいカフェもあるんだし、ワンボはこっちに来ないのかと訪ねると、ほとんど来ないと言う。値段はもちろん外国人プライスになるのもそうだけど、やっぱり、なんとなく外国人旅行者ばかりいるところは落ち着かないという感じのようだ。地元の気取らないチャイ屋とか食堂っぽい方が気楽でいいのだそうだ。なんだか分かる気がした。

 けっこう長く歩いてきたら、賑やかな通りを抜けた。見上げると小高い丘があった。その上にあるのがシャンティ・ストゥーパだ。途中にいくつものチョルテンを見ながら、階段をずっと登っていくのだ。 


 やっとの思いで登ると、そこからはレーの町が一望できて気持ちがよかった。
 本堂があったのでまずはお参り。そこかしこに日本語でも書いてあるし、創設者の方の写真や名前も紹介してあった。ツーリストも地元の人も参拝に訪れるようだ。



 極彩色のタンカには天国や地獄が描かれていた。この内容についてはまたの機会にしっかり触れたいと思う。

 
 ダライラマ法王の写真も飾ってあった。

 
 本堂を出て仏塔の方へ。 青空に、白い仏塔が浮き出ていた。時計回りに3回まわってお参りする。

 
仏塔の周りには、仏陀の一生が描かれていた。

  
 後光が差しているかのように仏塔は太陽を背負っていた。
 
 仏塔の目の前には、とても広い広場があり、なんとも美しい景色が見られた。ちょうどストックの方角だ。
 まだ人気のない時、その端っこに、エンジ色の袈裟を着た一人の僧侶が、座禅を組んで瞑想しているようだった。邪魔しないように、私たちもそこからの美しい景色をしばらく堪能していた。

2007/06/11

10,よく働くおじいちゃんとおばあちゃん

 今日は何やら畑仕事をすると聞いていたが、ギュルメットのアバ レー(お父さん)とメーメー レー(おじいさん)が家の家畜小屋近辺の土方工事?をしていた。この家は下の谷を見下ろすような崖のちょうど上にあるのだけど、その崖際に、もうひとつト イレを作るということのようだ。今のトイレは家の二階にあるけど、こんどは離れに新しいトイレをと言っていた。だが、基礎から何から自分たちでやるよう で、特に業者の人たちが来ているわけではない。いったいどうなるのだろう。

 ちなみに、これがギュルメットの家で、裏には小高い丘があり、写真で言う手前の泥がほしてあるような部分が、実は家畜小屋の天井となっていて、よく見ると空気口の穴もある。
  脇には小屋に入っていく下りの入り口がある。ちなみに泥に見えているのは牛の糞であり、これはまぎれもなく干している状態で、いずれ燃料として使うもの だ。南インドなどでは家の泥壁やヤシの木に貼り付けてほしていたが、ここではとくに貼り付けるでもなく干しているようだ。


  そんな、家の庭であり、家畜小屋の天井であるこの場所は言わばテラスのように見晴らしがいい。下には谷をはさんで畑が広がっているし、中央には本流の川 が流れている。左手側にはあのストックカンギリが頭をのぞかせているし、手前の山々も波打つ地層をあらわにした山があたり一面を囲う。



 アバ レーはカメラを向けると照れながらもうれしそうな笑顔を浮かべた。窓枠のような木の枠を持って下に下りようとしている。足元には無造作に干された牛の糞、ゴーバルでいっぱいだ。



 メーメー レーと相談しながら、一見する何もないスペースに今から本当にトイレなり何かしらの小屋ができるかと思うとちょっと信じられない気がしてきた。ここの人たちは何でも自分でやるのか。こんな基礎まで・・・。
 見ていると、頑丈そうな糸で高さのレベルを見ながら四方を図っていた。用意してあったかその変にあったか分からないような木の細い棒を必要なポイントに指しては、糸を固定させて四方に張った。日本と同じように糸を使っているので嬉しくなる。



  そのエリアをもっと平らにするのか、おじいさんは、すきの様な道具で石がごろごろして硬そうな地面を耕し始めた。メーメーレーは何歳だろう。あまりに元 気な姿なので聞いてみた。すると70を超えているという。アバウトなのがまたミソであるが、たいそうしっかりしているはと感心させられる。そんなメーメー レーの働く姿がそうしても撮りたくなりカメラを向けた。現役バリバリの農夫というか、その気迫に圧倒させられた。百姓とは百の仕事をするから百章というと は聞いたことがあるが、まさに何から何まで自分たちでつくる暮らしが垣間見られた。

 
  そんな横で、ちょっと手をもてあましているのはギュルメット。下で使う泥を庭から運ぶよう仕事をいいつけられているが、私が見るに、その作業には今ひと つ身が入っていない。あんなにおきな身体をしているのにこういうことに使わず何に使うのだ~!と、えらそうに渇を入れてみるも、彼は肩をすくませてニヤリ とするばかり。せっかくの夏休みなのに、遊びにいけずにソワソワしているように見えるのは私だけだろうか。まあ、分からないでもない。若さとはそういうも のだよなぁ、と、少々同情しながらも、私は作業の成り行きを見ながら、案の定日向ぼっこしていた。人のこと色々言ってる私こそ、この通り、やっぱりのんび りと、何するでもなくいるわけだった。




  午後は、アビ レー(おばあちゃん)といっしょに、ちょっとしたお留守番だった。というのは、谷間の川沿いの親戚にあたる家の子が生後一ヶ月になるのでお祝いだと言う。 みんな総出で手伝いに行ってしまった。お祝いを済ませたアビ レーが戻ってきて私と一緒にいてくれた。アビレーはヒンディー語があまりわからないため、困ったことにお互いよく会話ができない。でも、こういうのには慣 れっこなので、何をするというわけでもないが、日向ぼっこして一緒に座っていた。ラダック語の1~10までを教わっては覚えてみた。なんとなく日本語の発 音に似ていてちょっと覚えやすかったので面白かった!

 アビレーのシワシワの顔は、そのシワの数だけ、人間性の膨らみを感じさせる、貫禄のあるものだった。焼けた肌は、山の民の証。どうしてこんなにもこの焼けた肌とシワが美しいのだろう。民族服を身にまとったその姿は、完璧なまでに“老いてこその美しさ”だった。


2007/06/09

9,ストックを散策

 レーの街まで遊びに行った翌日はすっかり疲れが出てしまい、一日家でゆっくりしていた。高山病を克服したと調子に乗ったせいか・・・。

  ただ、また翌日にはすっきりしていたので、今日はストックの中にあるゴンパ(僧院)を訪れることにした。ギュルメットが連れて行ってくれるという。そし て、さらに、南インドの寄宿舎で学ぶ子どもたちから自分の家族へのレターやギフトなどをいくつも預かっていた私。この一つを同じ村の家族へ届けられると言 う。これは気を引き締めて行かなければ!


 ギュルメットのアンマ レー(=お母さんの意。レーは尊称)は、きっといつもの朝と同じように牛の乳搾りに精を出していた。緑の真新しい草を親牛に与え、子牛に少しおっぱいを飲 ませた後、子牛を綱で少し遠くにつないで、手馴れた手つきで乳搾りを始めた。時々親牛が反抗的な態度をとるも、アンマ レの手にかかるとおとなしくしているように感じる。やはり牛も心得たもので、上手に毎日乳搾りしてくれる人をよく信頼しているのだろう。ここにいた牛はイ ンド全般によくいる茶色いジャージー牛だった。いきなりヤクがいるわけではないようでちょっと残念!?。





  ストックゴンパまでは同じ村内ということで歩いていった。しかし、これが大きな間違いだった。というのも、やはり農村地帯の人々にとっての“歩いていけ る”という距離感は都会育ちの我々とは幾分異なっていて、案の定たくさん歩くことになったのだ。多分、高山病上がりの身体には想像以上に応えたのだろう。


  ようやく辿り着いたゴンパにはあまり人気がなかった。入り口に鍵までかかっていて中には入れそうにない様子。ギュルメットは誰かラマ ジー(チベット仏教僧。ジーはヒンディーで語の尊称。)を探しに行ってくれた。しばらくして戻ったギュルメットは、年老いてはいるがエンジ色の袈裟を着 た、 少し体格のいいラマ ジーと一緒だった。“ジュレー”と挨拶し中に入れてもらった。








  ラダックにて初めて訪れたゴンパがここストックゴンパになった。でも、正直何を見るべきかもよく分からない自分がいる・・・。飾られているものや色彩と か、見ることは見るが、全くの勉強不足である。そして、ギュルメットもさほどガイドにならない・・・。ごめん、ギュルメット。あなたを責める資格は私には ない。それにしてももったいない。もう少し慣れてくれば、見所も分かってくるだろう。もっともラマ ジーに色々質問すればいいわけだし。今日のところはこんな程度の自分にあきらめよう。

 それでも、数日前までやっていた仏教徒の施設でのボランティアでは、毎日、朝夕欠かさずお祈りをしていたのだが、あの“テラワダ”と言われるいわゆる小乗仏教とは何かと違うことだけはよく分かった。

  ややこしい話だが、つい先日までは小乗仏教にどっぷり身を置いていたのに、今は“マハヤナ”つまり大乗仏教のど真ん中に身を置いているのだ。せっかく覚え かけていたパーリー語のお経も、ここでは唱えられていないのだ。とても好きだったので残念ではあるが、新しいチベット仏教のマントラなどを聞けたり、直に それらに触れられると思うと、密かに胸を躍らせていた。

 まあ、ゆっくり触れていこうではないか・・・。そう思った。


 次に、ボランティアしていた寄宿学校の子どものお父さんを訪ねた。同じ村で大工さんの仕事をしているという。ちょうどその作業中のところを直撃できた。笑顔がたまらないお茶目なお父さんだった。家の窓枠などちょっと飾り彫刻などを施したりしているようだった。


 昔、若かれし頃、私も家具職人を目指して働いていたことがあるので、ついつい嬉しくなってしまう。職人さんというのはどこの国に行っても気持ちがいい人が多い。

  事情を説明し、ギフトを渡した。思いのほか、お父さんは息子からのギフトを受け取っても、大喜びなどしせず、クールに喜んでいた。でも、かれこれ2、3年 は軽く会っていないはずなんだけどなぁ・・・。そうか、まあそういう反応もあるよな。まだラダックの人々の感情表現がつかみきれていない私。とにかく、何 だか、とっても落ち着いて受け取ったお父さんが印象に残った。






  来るだけで遠く感じた私。もう少しでレーから家の方面へ行くバスが来るはずだというので、それを待ってバスで帰ることにした。ギュルメットにとっては なんてことない帰り道かもしれないが、私には、この、なだらかだけどずっと登りの道を、また帰っていくエネルギーは残ってなかった。標高が高く、空気が薄 いとはなんと恐ろしいことか。こんな道もまともに歩けなくさせるのだ。

  先日まで、子ども達と毎日サッカーをして、あんなに走り回っていた自分を思い出しては、自分の誇りを取り戻したくなった。でも、情けないけどこれがが現 実。一応、同じくらいの標高である富士登山でも、嫌と言うほど思い知らされた経験もある。ここは無理せずやっていこう。ゆっくりゆっくり。


  終点となる村の一番奥の辺りに我らの家がある。そのバスを降りたところは谷間になっていて、中心の川沿いに小さな売店がある。インドによくある“キオス ク”風というかタバコや風というか、れいの何でも売ってる小さなお店の、ちょっと簡素なヴァージョン とでも言えばいいか。塩や洗剤やスナック菓子、飲み物などの最低限のものが売られている。一応、家のちょっと下にそういうものがあると知り安堵する。

  その脇で、ギュルメットのほか、同じく寄宿舎より帰省していた近所に住むジャヨ青年や、ワンボの実の弟のタニなどと一緒に、ちょっとその店の軒先でボーっ としていた。
 とは言え、二十歳そこそこの若いお兄さんたちとの会話は、ある程度で行き詰る・・・。私は君たちをこれ以上楽しませられない。許してね・・・と、今度は気にせず 会話なしでボォーっとしていた。


  というのも、ボーっとするには最高の大自然なのだから。横を流れる雪解けの川音に耳を傾け、手に取れそうなほど近く、どこまでも青い空を眺めていた。澄ん だ空気は、自分の耳に入る全ての音をサラウンドで聞かせてくれるスピーカーのように機能する。私の耳がいいのか、自然の音が美しいからか、よくわからなく なる。この空気感はなんと説明していいかわからない。のどかだとか、そういう雰囲気だけのものではないのだ。空気感がちがうとは、いったいどういう言葉を もって説明したらいいのか、全く見つからない。

 
 そんな私たちの近くで、プラ スチックの白い椅子に腰掛けながら談笑しているヨーロッパ系と思われる外国人登山者グループがいた。彼らは今からトレッキン グに行くようだ。ここは紛れもないストックカンギリ(標高6123m)の登山口。こんな風にいつでも外国人が入ってくる場所なのだと痛感する。

  いつか自分もあの山に登れたらどんなにか嬉しいだろう・・・と、氷河が残る山の頂上を見つめて いた。6123mとは、例えば、ここが東京だとしたら、富士山を仰ぎ見るような高さであるが、ここがすでに3500mほどの標高であるから、ストックカン ギリは富士山の頂上に登り、更にもう一つ富士山に登ろうとする状態とでも言おうか。なんとも、目の前にあるこの山は、今にも手が届きそうで、全く届かない ものに思えてきた。



 午後は、ワンボが家の周辺をいろいろ案内してくれた。



  家から少し歩いたところで、メーメー レー(おじいさん)と、アバ レー(お父さん)と、彼の従兄弟が牛の餌場の柵を修復すると言って出るところだった。すかさずついて行き、どんな作業をするのか拝見させてもらっ た。柵というのは石で作られたものだった。すごい、すべて自然の素材でそのまま作っているのだ。





  ワンボの提案で少し高いところから村を見渡すことになった。すぐ目の前の小高い丘に少し登ってみようという。こんな平地でもちょっと息が切れるから不安 ではあったが、こういうことには挑戦してみたくなる性分がある。砂っぽいような、岩がゴツゴツしたような斜面をゆっくりゆっくり登っていく。

 日本でも、毎月一度は必ず日帰りで低山登山に行く自分なので、多少できるとことろ見せたい・・・と言う虚栄心もがんばってしまう。でも、もうラダックへ来て4日目だけど、ちょっとの丘でさえこんなに息苦しいことに驚きを隠せない。

 そして、ワンボがここまでと決めていた見晴らし場のような岩までたどり着いたので、ようやく岩に腰を下ろした。苦労して登ってきて、見下ろした景色はこんな感じだった。



  眼下には、登ってきた丘の不毛な灰色に反して、一面は木々の緑や畑の若い芽が大地を覆いはじめていた。初日に高山病の夢うつつで遠くから聞こえてきてい た、土を耕す男達のやまぬ掛け声があったが、私が到着する前くらいから種まきがされていたから、すでにはやいところでは新芽が出ていた。そして、それらの 畑にはそれぞれ石か何かで垣根がつくられているのが見えた。家々はみな白い壁が緑に映えて美しい。すぐ下にはチョルテンと言われる小さな仏塔も見える。ワ ンボの家やギュルメットの家など教えてもらいながら、家周辺の全体像が見えてきた。



 下りたらあっという間だけど、下からは見えなかった小道が途中にあった。そっちの道にそれながら、つまらない冗談などを話しながら歩いた。ここは多くは牛やロバを連れて歩く道のようだ。
  ぐるっとまわってから戻ると、さっき見たチョルテン(仏塔)の所まで来た。ここはこの近所のいくつかの世帯で守っているコミュニティーのものだという。 その上にある小さなゴンパはやはり鍵がかかっていて入れなかったが、いつも順番で当番が決まっていて世話をしているという。近所のつながりが深いのだ。



  家のすぐ近くまで戻ってきたところで、さわやかな小川の通りに出た。あのストックカンギリの山から流れてくるこの水は、いくつも支流がありこうして家の 周辺をまんべんなく流れているようだ。日差しは強いが、小川沿いの木陰はなんとも涼しく気持ちがいい。下の谷間の川は本流だから音の迫力もすごかったが、 こっちの支流の小川もまた、せせらぎというにふさわしいきれいで冷たい川だ。


2007/06/07

8,いざ!レーの街へ

 睡眠を充分にとれたからか、高山病の症状は朝起きたらスッキリしていた。どうなるかと思っていたけど、これならばどうにか出かけられそうだ。早速、レーの街に連れて行ってもらうことに。ああ、よかったよかった。
  ガイドブックも何も持たないで来ているという、“適度に力の抜けた旅”であるため、案内人は欠かせない私であった。ましてや、好んで町場のゲストハウスに 泊まることはせず、空港からまっすぐ村に来ているのだ。誰か“人”に私のガイドブックになってもらうのだ。まずはこのストックの村からどういう交通手段で 街に行くのかも分からないのだから、しっかり教えていただこう。どうやら交通手段はバスらしい。ギュルメットはもちろんワンボも一緒に行くという。彼は レーで何やら用事があるらしい。よーし、いざ街へ!

 “バス乗り場”という場所まで少し歩いた。といって何も停留所らしい看板か何かがあるわけではない。でも徐々に何となく人が集まってきた。ギュルメットたちとも親しく話始める。私も混ざって“ジュレー”と笑顔でごあいさつ。何でも土地の言葉で挨拶するのは旅の鉄則。
  そしてやってきたバス。バスと言っても白いミニバスだった。“Swaraj Mazda(スワラージ・マツダ)”とバスの車体に書いてある。インドに進出し合弁会社としてやっている日本の車と言えばMARUTI SUZUKIがメジャーだけど、MAZDAもたまに見かける。こんなところで日本のものに出会うとちょっと妙な気もちになるが、企業努力というものはこん なヒマラヤの山奥にまで届くのだと考えると感慨深くもなる。


     レーパレス
         
     中央はポログラウンド  

     レーパレスから見た街


 そのSwaraj Mazdaに揺られて40分ほどだろうか、レーの街に着いた。写真にあるように、まずは王道のレーパレスを見に行き、街を一望する。ああ、ラダックに来たのだな。深く空気をす吸い込む。
  乾いた土壁のパレスはTVで見た戦争下のアフガニスタンのようにも見えた。というのも、ちょうどパレスへの道の修復作業をしている労働者たちが、現地ラ ダック人ではなくて、カシミール州のイスラム教徒だったから、ターバンやクルタ姿が数人歩いていると、ちょうどそれっぽく映ったのだ。
 
  こういう労働者はインド中、本当にどこへいっても出会うけれど、多くは“外から来た人”が担っていることが多い。いわゆる“出稼ぎ”だ。インドで一番多 いのはビハール州からの出稼ぎ人ではないかと思う。残念ながら、いわゆる“識字率が低く”、経済的に貧しいことはよく言われている。でも、ここラダックにはさすがにいないのでは・・・と私は勝手に思っていた。(この予想は後に全く間違っていたことがわかる。)
 なんにしろ、ここカシミール州内のラダックの経済的な位置づけがまだ良く分かっていない私は、ラダックに出稼ぎに来ている同州内のイスラム教徒の労働者を見て、ちょっと違和感みたいなものを感じた。出稼ぎに来るということは経済的にそれなりに良くないと来な いだろうから、つまりはここは、そのような豊かな場所なのか・・・。まだよく分からないでいた。
 でも、到着後に見ている数件の友人宅だけでも、“貧しさ”を 感じた家はなかった。今までインドの農村によく足を運んだつもりでいるけど、その時に感じる“貧しさ”をまだ感じていなかった。もしかすると、ここはいわ ゆるインドのそれとはちょっと違う何か水準というか、文化というかがあるのかもしれないとようやく感じ始めていた。

     ストックカンギリを含む山々  
     あの後ろにヒマラヤ山脈がある。ここからはインド地図を逆さまに見ている状態。

            お世話になるギュルメット(右)とワンボ
 
 
   町を一望すると、対面に見える雪をかぶった高い山々が気になった。聞いてみると彼ら曰く、それがストック・カンギリだという。彼らの村の名とい うべきか、あの山の名から村の名がついたというべきかは分からないが、まぁ、あんなに立派な山のふもとにストックの村があるわけだ。こりゃあ、誇らしい 山だ。私まで得意げになっていた。というのも、自分の住んでいる土地の山を愛したり信仰することに憧れすら抱いている私にはもってこいのロケーションだっ た のだ。ちょっと得意げな二人の気持ちがすごくわかる気がした。
 それにしても、本当に青い空と、澄んだ 空 気、静かな大地には、それ自体からものすごいパワーを感じる。いつか必ず行かなければと思い続けてきたヒマラヤの山々は、もう私の目の前にあるどころか、 私はそのただ中にいた。じっくりこの山の中の生活を味わっていこう。そう思うと胸が弾んだ。
 
  それからは、彼らと一緒にランチをしたり、街の中を更に探索したり・・・、とやってはいたが・・・、決して大きくもない街だからいつの間にか同じところを 歩いていたり、さっきもここ来たよね・・・?みたいなことも何度かあった。だからついつい、こんなものか・・・とさえ思ってしまったが、これはしょうがな いことだ。大都会じゃないんだから。このくらいの規模がむしろ素敵なはずだ。それに、初日でまだよく分かっていないんだし、いろんな店なんかも見てから言 うことにしよう。

 最後に、彼らは私をポログラウンドなる場所に連れて行ってくれた。本来は名の通りポロの競技が行われるようだけど、今日はここでサッカー対戦が行われていたのでびっくり!こんな高地(
3500mくらい)でも本気でサッカーやってるんだからすごい。どういう肺を持っているんだろう・・・。
  大のサッカー好き(プレー、観戦共に)の私は、ラダックに来る前に南インドのマイソールにて、子供達と毎日サッカー三昧だったし、インドの暑さでのプ レーにも体力的に自信がついていたが、ここラダックでの高地プレーには全く自信が湧かなかった。よくできるよなあ~と、あっけに取られながらも、ワンボも 学生時代サッカーをやっていたというのでサッカー話に花を咲かせた。
 「もっとパスつながなきゃ~!」とか言いたいこと言いながら、いつの間にか興奮している私。そうそう、ワンボの弟のアバヤ(先に登場)がいかにいいミッドフィルダーだったかの話をまた熱く語りだした私。
 ああ、どこでもサッカーに出会えるなんて、なんて幸せな旅だろう・・・。しみじみ嬉しくなった。

 
 午後もいい時間になった頃、ストックへはまたバスで帰る。時間も決まっていて本数も少ないようだ。
 日中は日差しが強く日焼けしそうなほどだ。標高が高い分、紫外線もきつく感じるし、目に刺さるような強い日差しにはサングラスが欠かせない。
 
 ミニバスの中で流れるラダックのポップスらしき歌が、インドに来て、ヒンディーの映画の歌をはじめて聞いた時のように、みな同じに聞こえて懐かしかった。
  

2007/06/06

7,ウェルカム・ディナー

 高山病もある程度落ち着いた夕暮れ時、外は暗くなりはじめているのに部屋の中に明かりがない。どうやらまだ電気がきていないようだ。
 客間にてひとり、立ち上がれるわけでもなく、せめて気だるい身体を起こして座っていた私のところに、ギュルメットのお父さんが来て言った。

 「一人で居てもつまらないだろう。あっちの部屋にいらっしゃい。」

行ってみると、さほど広くはないキッチンにお母さん、ギュルメット、そして紹介していなかったがギュルメットのお姉さんの子(1歳半の女の子)、そして、ギュルメットが連れてきたさっきの従兄弟のお兄さんがいた。明かりのないキッチンで肩を寄せてお茶をすすりながら時をやりすごしているようだった。

従兄弟の兄さんの名はワンボといった。彼らの家は目と鼻の先、つまり目の前にあるのだが、あちらが本家で、ギュルメットのこの家が分家にあたる。
ワンボはギュルメットに比べると背格好は小さいが、長男坊だからか、実年齢的なものか、何か兄貴分である貫禄が感じられる。
このワンボとは先ほど、敗北感に乱れつつも、気を取り直して“初めまして”の挨拶をし、お互い自己紹介をしていくうちにいろいろ共通点があったりしてすぐに打ち解けられたのだった。

まず、彼は私が滞在していたマイソールの施設のすぐ近くにラダックの友人達と一緒に住んでいて、大学に通っていたと言うからローカルネタで話が膨らんだ。そして更にその後デリーにもいたというのだけど、それも私の友人の住んでいる南デリーの近くに住んでいたらしく、よく遊びに言っていた場所だったとか、まあ、偶然とは言えすっかり盛り上がったのだ。
それにしても、さっき遠慮してすぐには部屋に入ってこなかった人だとは思えないほど、はっきりと力強くしゃべり、若いのにしっかりしてるなあ、と思わされるアチョ(兄さん)だった。

そして、彼もこれまたきれいなヒンディー語を話すので驚いた。(よほど、私はラダックの人がヒンディー語はそんなに話せない、と思っていたようで、大袈裟に感動しているのでご容赦いただきたい・・・。)

そう、そして私が人のヒンディー語の評価?(偉そうに!)らしきことを言ってるので気に障られるかもしてないが、私は決して悪気はなく、自分自身ぜんぜん流暢ではないことを断っておきたい。ただ、人がどんなヒンディーを喋るかを感じるのが好きで、ついついそういう言い方をしてしまうのだ。

ヒンディー語は一応インドの公用語であるから、特に北インドではほとんど通用するけれど、地方独特の言い回しがあったり、発音があったりもする。また、いわゆるピュア・ヒンディーだと言うバラナシの辺りだとか、つまりウッタルプラデシュ州や、デリーあたりを除いては、多くのヒンディー語話者が、その外にローカルの言語も話す人たちなのだ。だから、あくまでヒンディーは共通語として存在しているから、そういう意味で多様な“スタイル”を持っているような感じがする。

それは、世界の中の英語の位置づけにも似ているのかもしれない。ネイティブと言われるエリアがあり、話者がいるけれど、便利な共通語としてその他のあらゆる国の人たちが英語も話すように。そして、それはけっしてネイティブとは言い切れなくても、でも充分それなりに英語を使う人たちがいたりする。これと同じようにヒンディー語も存在していると思う。

そういうヒンディー語だから、人によっては読み書きは分からないけど話す人もいるし、一度も教育としては受けたことないけど身についていて話す人もいるし、方言と混ざって話す人もいる。、時にはインド人とはいえ間違って使っていることなんかもよくあることなのだ。
私はそういう、いい意味で幅の広い、いや、もっと言うと懐の深い背景を持った言語であるヒンディー語が大好きになっていった。


話をキッチンに戻そう。

まだ朝夕は寒さが残るこの時期、身体を冷やさぬよう、常にかけとくようにと言われ、薄暗いキッチンに毛布を持参して登場した私。皆が大丈夫かと心配しながら座れ座れと気遣ってくれる。そして夕食の支度が始まるようだった。するとワンボは私に改めてこう言った。

「今日はWELCOMEディナーだから僕がごはんを作るよ!」
「わ~、ありがとう!」

私はありがたく素直に喜んだ。
彼ら親戚同士の関係も垣間見れたような気がした。このような距離感なのだというのがよくわかる。
いいなあ、こういう風にすぐ近くに親戚が住んでたりするのって。
私、こういうのに憧れてるんだよね・・・。うらやましいわ!

おかげさまで、おいしいディナーにありつけた。
ワンボが作ってくれたのは、自分も大好きだという“アル・マタル”
(じゃがいもとグリーンピースのカレー)
いわゆるラダック料理ではなかった気がしたが、身体の調子がイマイチなので、
食べなれた優しい味がありがたかった。ラダック料理はまた徐々に楽しめるだろう。

さて、この初日の夜さえぐっすり眠れれば、明日にだって遊びに出かけられるのだ。
日中、さんざん寝たのだけど、また更に寝て明日に備えようと、床に入った。

6, 次々と親戚たちがやってくる

 どのくらい寝ただろうか。目が覚めてみてもまず頭痛が止まない。時に吐き気すらある。かといって吐くわけではない。でも気持ち悪いのだ。
 起きるでも眠るでもなく横になっていると、ギュルメットやお母さんが起きた私に気づいて部屋に入ってくる。大丈夫?と様子を伺う。まあ、寝るしかないね・・・と返す私。お昼ご飯を出してもらったがほとんど食べられず手をつけなかった。食欲もない状態が続く。
 
 色とりどりの模様があしらわれたチベット風ポット(魔法瓶)のお湯を汲んでもらっては飲んでいた。ポットからお湯をくべる力も今の自分にはない。起きるのもちょっと辛い。
 そうこうしているとまた眠ったようだった。その繰り返しだった。深い眠りをとらなきゃという気持ちはあっても、今、この場で眠りの深さをコントロールする術を知らない。まあ、大丈夫じゃないかなとは思えたのがせめて前向きになれる要素だった。

 こんな私にずっと付き合えるほど彼らは暇ではなかった。ギュルメットは私の部屋の入り口まできてこう言った。
 「ちょっと仕事があるから30分くらい出てくるけど、すぐ戻るから・・・。深~い眠りが大切だからね」

しばらくしてお父さんも来て入り口でこう言った。
 「畑の仕事があるから行ってくるよ。40分くらいで戻るから心配要らない。ゆっくり寝てなさい」

 私は驚いた。まずその客人に対する気遣いや優しさに対して。出かけるごとに、いちいち自分の行動を細かく告げて、私が心配しないようにしてくれるのだ。そして、もうひとつ、彼らは2人とも“時間”と言う具体的な長さを見積って伝えてくれるのだった。二人は別々に来て私にそう言って行ったのだが、それぞれ必ず出かける時間を具体的に言っていったのだ。私はえらく感動して安心して眠っていた。ああ、全然問題ないです、私は寝てますので、いってらっしゃ~い。

 お母さんは、とにかく私の傍に何度も来てくれた。なんてみんな優しいんだ。
私は大丈夫だよ~。とにかく寝ます・・・。 と説得力のない気だるい感じで応えていた。

 少し、眠りも落ち着いた時だった。窓の外の門がキィーと鳴って誰かが入ってくる。女性だった。部屋の入り口から私を見るなり、ジュレー!と挨拶する。
 ラダックの女性はみんな同じような民族衣装を着ていて、慣れないうちはどの人も同じに見えてしまう。だれか親戚なんだろうなって思っていた。それでも多分お母さんは私が誰なのか説明しているようだった。
 すると、そのおばさんが私に向かって「ロートス、ロートス」と言っている。さっきまでこのおばちゃん2人はラダック語でなにやら話していたから、私には会話の文脈が全く読めない。でも、なんとなくどこかで聞いたことのある響き・・・ロートス・・・。

 するとギュルメットのお母さんが言った。
 「アバヤのお母さんだよ」
 「・・・・・・・・、
  え~~~~~!? アバヤのお母さんなの??」

 私は高山病も忘れるような勢いで驚いた。アバヤとは妙な名前だが南インドでボランティアをしていた時に、毎日のように一緒にサッカーをしていた男の子の名前だった。彼らは施設では別の名前をもらっているので、本名を言われても残念なことにピンとこないのだ。
 すかさず私は毎日一緒にサッカーをしていたこと。彼はものすごいセンスのいいミットフィルダーで、とてもいいプレイヤーであることなどを伝えた。きっとかれこれ何年もこの親子は会っていないはずだった。言われて見ればちょっと顔も似ている。それにしても笑顔が素敵なお母さんだというのが第一印象だった。
 
 こうして、次々と親戚中が私の顔を見に来ることになる。
 ロートスのお父さん、おばあちゃん、おじいちゃん。近所のおばちゃん。などなど。

 またどのくらい寝っていただろうか。窓の外を見るとまだ明るかった。そんなにたくさんは眠れないものだ。気がついたら夜だったという時間にはまだ早いみたいだった。
 そして、窓の外に見える家の門が、またキィーという音と共に開いた。ギュルメットが入ってきた。仕事から戻ってきたのだろうか。私は起き上がるべきか迷っていた。すると彼に続いてまた誰かが一緒に入って来た。若い男の子だった。 
 私は一瞬、本能的にヤバイと思った。どう考えても今までのお母さんやお父さんやおばあちゃんたちとは違う、若いお兄ちゃんが来てしまった。おいおい、勘弁してくれよ~。こっちは半ば病人みたいな状態。化粧は落ちきっているし、髪は乱れ放題で、寝起き丸出しの姿だった。ていうか今この瞬間まで、まさに寝ていた。この状態でそういう来客はキツイなあ・・・。“そういうって来客”ってなんだって話しだが、とりあえず私は慌てて起きて布団をかぶりながらも壁にもたれて座っておいた。もう、あきらめるしかなかった。

 「どう?調子は?」 ギュルメットは聞きながら、私の前に座った。
 「うん、まあまあ。でも頭はまだ痛いなあ。」 と私。すると、
 「・・・アチョ! 何やってるの?中においでよ」 さっき一緒に来たお兄ちゃんに向かって、ギュルメットはラダック語で“お兄さん”の呼び名で呼んで部屋に入るよう言った。親戚のお兄ちゃんかな・・・。
 恥ずかしがっているのか、遠慮しているのか、さっきまでノック一つしないで入ってきていた大人たちのそれとはちょっと違った様子で一人の青年が入ってきた。
 「ジュレー!」
 彼は以前にもギュルメットが私に話してくれたことのある従兄弟のお兄ちゃんだった。つまり、ロートスのお兄ちゃんであり、さっき来た笑顔が素敵なお母さんの息子だ。(当たり前か)

 正直に言うと、さっき門から入ってきてヤバイと思ったのには訳があった。私はやみくもに“若いお兄ちゃん”に反応しただけではなかったのだ。どちらかというと、彼のその着ている洋服、“腰ばき”した太目のジーンズと、Tシャツの上に羽織られたハーフのダウンジャケットなどからかもし出ている、“オシャレな若者”の雰囲気。洗練されたスキンヘッドがちょっと伸びたようなヘアースタイル。そして、美しい眼がキラキラしていて、おまけに耳のピアスまでキラキラしていた。

 正直、私はナメていた。何をナメていたって、それはつまり、こんなヒマラヤを越えてようやくたどり着いたこの高原の砂漠に、そんな“B-BOY”風のオシャレな青年がいるなんて想像もしていなかったのだ。いや、ちゃんと言えば、実はラダックやアルナーチャルプラデシュ州の若者が、すごくオシャレなことを私は充分に知っていた。南インドのその施設の若者たちを見ていたからだ。例えばジーンズの“腰ばき"はあたりまえで、カルバンクラインとかのロゴの入ったパンツを見せていたりする。それに、ヘアースタイルだっていつでも決めていた。みんな黒髪ってこともあって、なんとなく日本人のオシャレな若い男の子を思わせるような感じがした。
 しかしだ、しかし、その現代っ子具合は分かっているつもりなのだが、なんかもっと洗練されていたのだ。だから面食らってしまったというのが、正直なところだった。クヤシイが、今のこの寝起きの私じゃぁ、かつての“B-GIRL魂”はおろか、オシャレにうるさい日本人なりの誇りすら“見せ付けて”対抗することもできなかった。せめて、ぐしゃぐしゃになった髪を鏡も見ずに想像で直すくらいしかできなかった。最悪だ。
私の負けです・・・。

 何を隠そう、その昔。いや、大昔、私はいっぱしの“B-GIRL”を気取っていた頃があった。インドにハマる前はHIP-HOPが大好きな女であった。そうやって80年代の終わり、つまり自分の10代後半の人生を過ごした口だった。いや、今も実は好きだ。だから、多分そのプライドがくすぐられたと言うか、そんな不意打ちを食らった感じだったのだ。 久しぶりにその感覚が刺激された私は、何か高山病も手伝ってか衝撃は大きく、妙に新鮮な気持ちを味わっていた。

5, ひたすら寝るべし!高山病の対処法

 ギュルメットのお母さんが、朝ご飯は何を食べるかと聞いてくれるのだが、正直なんでもよかった。実はそんなに食欲はなかった。しばらくして出てきた白米と野菜のカレーはギュルメットが作ったという。トマトがふんだんに入っていておいしそう。実際に食べてみてもすごくおいしいのだけど、あまりたくさんは食べれない。どうしたんだろう。疲れているのかな。 

 ちょっとしたらギュルメットが来て、バイクを返しに行ってくると言う。
「おっと、ちょっと待った!」
 それは私も行かなければならぬ。何を隠そう、そのバイクを貸してくれた人は私が知っている数少ないストックの人だったからだ。

 彼はギュルメットも学んでいる仏教系の学校&寄宿舎に関わる仕事のために、はるばるラダックから来ていた。私たちはちょうどその時南インドで会ったのだった。それも記念すべき、今回インドに着いたその初日に出会ったのだった。これも何かの縁だったのだろう。今回は絶対ラダックに行くと決めていた私に連絡先をくれて彼の仕事の話などをしてくれた。彼は外国人に瞑想を教えたりするワークショップをやっているのだという。毎年各国からいろんな人が来ていて、それはまあ、見事なほどいろんな国の事情を知っているのだ。

 瞑想を志願してくるような人なので場合によってはとても重い心の闇を抱えている人もいる。また、仏教思想の話になるとすごく議論したがる人もいて、ものすごくたくさんのディスカッションをしたこと、などなどいろんな人が話しに登場してくる。その国独特のアイデンティティーや、その特徴的な出来事など、彼はこの仕事を通してよく熟知していた。そんな訳で随分盛り上がって話していた。私から見た日本人や日本のことなんかも伝えて語り合った。非常に興味深い人で、勉強になる話をしてくれる人だった。彼は国際結婚していて奥さんと子どもと共にストックに住んでいるという。ぜひ遊びにいらっしゃいと言われて、間違いなく行くだろうと思っていたのだが、その後、更にギュルメットにも出会って、本当にストックに滞在することになるとは・・・。不思議な因縁を感じる。

 私とギュルメットは再びバイクに乗って、しばらく下へと下って行った。バイクではそう遠く感じなかった。やはり彼の家も小高いところにあった。庭を通って家の中に入ると、ギュルメットは何やら挨拶してラダック語でしゃべった。見ると彼は居間に座っていた。

 「ジュレー!」
またもお約束のご挨拶。少し驚いたように挨拶したかと思うと彼はちょっと神妙な顔で言った。
 「何で君もこんな所までいっしょに来たんだ~??」
いきなり、歓迎されていない感じなの??戸惑う私に彼は続けた。
 「君は、今日は一日寝ていないといけないんだよ。高山病の症状が出てくるよ!」

 私もギュルメットも、きっとポカンとしていただろう。え、そうなの??こんなに動いていちゃヤバイの?高山病の症状とかいろいろ読んだつもりだったけど、どこにも“すぐに寝なさい”とは書いていなかった。そんなこと誰も教えてくれなかったし~!誰もって誰のことなのかよく分からないが、なんとなくそう思った。

 「そうなんだ。知らなかった。まあ今は大丈夫だけど、でも確かにちょっと頭が痛くなってきてるかも」
 
 暗示にかけられたように急に高山病になっている気がしたのか・・・。本当にぼとぼち症状が出てきているのか。私には初めてのことで判断がつかない。それからというもの、手馴れた感じで彼は私たちに高山病の対処方法、適応する方法などを説明してくれた。

 「まず今日はひたすら寝ること。ぐっすり深い眠りにつけて夜も充分に寝れれば、明日にはレーの街に遊びに行ったっていい。それと、しばらくは水は飲まないこと。とにかく温かいお湯を飲むように。もし、高山病の症状がおさまらなかったら・・・、その治療方法はたった一つ。下山するのみ」

 そうだった。確かに下山しか治療はないとはよく書いてあった。でも、お湯を飲めとか、一日中寝ていろとは書いていなかったのだ。そうか、そういう風にやるんだ。ギュルメットだって外国人用のこういう対処方法は知らなかったようだ。無理もない。ラダックの人と私たちのような外国人は身体の構造が違うっていうか、生まれ育った場所が違いすぎている。当たり前の適応ができないことを想像する方が難しいかもしれない。

 手ほどきを受けた私たちは早速家に帰ることにした。しかし、これがマヌケなのだが、返しに来たはずのバイクに乗ってまた戻るよう諭される。

 「今の状態では10m歩くのだって辛いはずだ。ましてこの距離を歩いて帰るなんて絶対に無理だ!君はいったんギュルメットと共にバイクで帰って、その後、ギュルメットが一人でバイクを返しに来ればいい」

 バイクであっとう間に下ってきたから近いのだと思っていたら、歩いたら20分か30分はかかるという。距離感がわからない。なんと言う無駄足を踏んでいることか。それでも、知恵を授かったのでありがたかった。ありがとう!感謝を表してひとまず帰宅。話はまたの機会にゆっくりと・・・。

 それからというもの、ギュルメットは急に私を病人扱い?で彼からは緊迫感すら漂ってきた。
 「まずは水は飲むなっていってたよな、母さんにも言って水はダメだって言っておく。それでお湯をポットに入れて用意するからそれを飲んで。そして、とにかくよ~く寝ろって。それも深い眠りだ。帰ったらすぐ寝るんだよ」

 ほとんど彼が言ったことの復唱である。大丈夫だろうか。私の高山病よりもギュルメットの緊迫感の方が心配になってくる。そうは言っても、私もだんだんと頭痛がひどくなってきていた。頭が割れるような、何か圧迫した感じが波を打つようにやってくる。ああ、高山病って確かに辛いかも・・・。

 私は自分の部屋として使っていいといわれた客間で、持ってきていたセーターを着て、何枚も毛布をかけてもらってひとまず眠りについた。そう、まだこの寒さにも慣れていない私だった。

4,ストック (stok)

 チャイを飲んで身体を温めたところで、私たちはまたバイクに乗って走り出した。すぐに渡った橋には、色とりどりの旗がたくさんくくりつけられていて風になびいていた。
後から学習したことだけど、これはタルチョという。青、白、赤、緑、黄の5色からなり、祈願などのマントラが書かれていて、その中央に馬が描かれている。この馬は「風の馬(ルンタ)」だそうで、このルンタが風に乗って空を駆けて仏の教えを広めたり、願いを天に届けてくれると信じられている。並び順も決まっており、前述の5色の順番となるし、またそれぞれの色にも意味がある。青は空 、白は雲、赤は火、緑は水、黄は大地 を意味しているという。
 このタルチョは橋とか家の一番高いところ、または峠などには必ずある。タルチョが風にはためいて、雨風にさらされ風化していけばいくほど良いらしく、また新年などには新しいものに取り替えることもあったりするという。

 橋を渡ってからはいよいよストックの村に入る。これも後から分かったことだけど、この橋がかかっていた河は、あの“インダス河”だったという。何も知らない私はそのすごさに感動もできず、ただ河だけをキレイだなあなんて見ていた。もったいないことも時には起こる。まあ、後から知ったのだから充分なのだけど。
 河を過ぎたあたりは民家が点在していて、水分も感じられることろだったが、だんだんと砂漠のような緑もない乾いた台地がはじまった。なだらかにも見えるが道はずっとそれなりの勾配があった。

 「僕の姉さんの家に寄っていこう。同じ村の人と結婚して住んでいるんだ」
 「行っちゃっていいの?大丈夫なら寄っていこう!(お土産もあるし・・・)」

 図々しさだけは天下一品なので、何も遠慮しない。しかし、インドで培ったこの“遠慮しらず”はラダックではタブーというか、美徳ではないということは後になってだんだんと知っていくのであった・・・。

 もうここはバイクは無理なんじゃないかという小道にさしかかってもバイクから降りずに進んでいた。しかし、いい加減下りないとガタガタで進まないあたりまで来て、彼はあきらめてバイクを押しはじめた。家はまだ完全に出来上がっていないという。確かにある一角だけは壁も窓もできているが、部分的にまだ作っている感じだった。結婚してから作ったと言うその家はまだ確かに完成していなかった。

 「ジュレー!」
 ギュルメットのお姉さんは、急に来た外国人の私にさほど戸惑わずにお茶を入れてくれる。バター茶だった。おお~、初バター茶!現地で飲むバター茶の味はいかがなものだろう・・・。
 おいしい!お茶というよりスープのようだ。癖も別にない。飲みやすい味だった。
小さなお土産を用意していたので、お姉さんにあげれるいいチャンスとなった。聞けばお姉さんは二人目の子どもを妊娠中だという。お姉さんとは言ってもまったく自分の方が年上だった。旦那さんはインドの軍の仕事をしているので、いつもは配属になった駐屯地にいるようだが、数ヶ月に一度帰ってくるという。今は妻の妊娠もありラダックに戻ってきている。ただ、その日はちょうど不在だった。

 二十台半ばを過ぎた女性に子どもが2人いるなんて、むしろ普通だろう。驚くことではない。それに引き換え、私はいまだに自分にとっての新天地(ラダック)に足を運んだり、旅をしているわけだ。安定した生活などほど遠い。もちろん、好きでやっているのだけど。

 「お茶飲んで」
またバター茶を注いでくれようとする。え、まだ入ってるよ・・・と思っていると、お姉さんは言った。
 「ラダックでは、バター茶はずっと注ぎ続けて飲むのよ。飲んで飲んで」
言われるがままに私は少し飲んでは注いでもらった。なるほど、カップの中のお茶がなくなる前に注ぐなんて、そりゃあ日本で言うところのビールと同じだな。ビール党の私はそれなら手馴れたものだと安心した。が、バター茶はあくまでバター茶なので、ビールのように次々飲めるものでもない。
 う~ん、このままだと、“NOと言えない日本人”まっしぐらだった。バター茶の作法上、「もういらない」と言っていいのか分からない・・・。
 
 「そろそろ行こうか」
助け舟が入った。ふぅ~。命拾いした気がした。あのまま放っておかれたら、バター茶をめぐって私たちの“いたちごっこ”をいつ終わらせればいいのかわからず戸惑っていたことだろう。
 お姉さんとは話もできたし、まず一つ目の顔合わせを終えた。同じ村なんだし、また来るね~、という感じでお姉さん宅を後にした。
 
 バイクに乗って更に登っていく。そこらじゅうの畑がちょうど耕されているか、すでに何か数センチほどの芽が伸びていた。多くは麦らしい。点在する家々は白っぽい壁がキレイで、窓枠はエンジ色が塗られている。簡素な色合いが素敵だった。樹の生えていないあのはげ山がすぐ近くまできていた。どれくらい登ってきただろうか。村の一番奥の方にあたるところが僕らの家があるところだとギュルメットは言う。そして、今までよりも開けた場所に私たちは出てきた。中央には河があり、それなりに川幅もあった。

 「あれだよ!」 
そういって家の方を指差すギュルメット。しかし、家は2,3件あってどれだか分からない。
 「え?どのおうち?」
まあ、登っていこう。そういう感じだった。最近、雨がたくさん降った時に、河の水量が増して、橋が流されてしまったらしく、ここの河をまたがないといけないという。大きな石をみつけては歩いて渡る。
 「あ、あれが、僕のお母さんだよ」
少し小高いところにある家の前の崖っぷちに、一人のおばさんがこちらを見て立っていた。何か作業をしているようだった。
 その、小高いことろまで行くために、あと少しの坂をを登るだけなのに息が切れる。ぜんぜん登れない。これが高山での消耗具合か・・・。以前経験した富士登山の苦しみが思い出される。上に行けば行くほどきつかった。今ちょうどそれくらいなのだ。標高3600mくらい。

 「ジュレー!」
ようやく坂を登ってしっかりとした門をくぐると、お母さんとご対面。へぇ、この方がギュルメットのお母さまなのね~。思ったより年がいっているような気がした。もしくはそう見えるだけかもしれない。私は、背筋をのばし、しばらくお世話になります!というかんじで挨拶した。
 家に入って、さっそく荷物を降ろす。南インドから運んできたお土産物を渡そうとおもっていたら、ちょうどどこかからお父さんも現れた。目鼻立ちのすっきりした感じの素敵なお父さん。顔は焼けていて浅黒くたくましい。でも、物腰の柔らかい感じがある。一番驚いたのは、発せられた声を聞いてだった。ギュルメットの声と全く同じだっ!親子でそっくりの声をしている。低くて遠くまで通りそうなその声は、なんというか言うなれば、俳優のような声をしていた。これはこの2人の特別なものなのか。ちょっと驚いてしまった。

 さっき飲んだばかりだがチャイとバター茶をまたもいただく。そして話し始めて更に驚いたのは、お父さんはなんとまあネイティブなヒンディー語を話すこと。難しくって時々分からない。もしかしたらウルドゥー語っぽいのかもしれない。そしてお母さんもそこまでではないけどヒンディーが話せるのだ。ああ~、よかった!きっとはじめてのラダックで、細かいことをいろいろ聞かなければならないだろうこのお母さんと、基本的なコミュニケーションが取れることが分かった。胸を撫で下ろす私。

 北インドという土地のヒンディー語使用率は、南インドのそれとは桁がちがう感じがして恐れ入ったのだった。 ていうか、じゃあ始めっから北インドばっかり来てりゃよかったんじゃないの?って自分に小さく突っこんでみた。とは言え、縁と言うのはそんなもので、いつどうなるかわからないものだった。私だってヒンディー語をちょっとは勉強していても、それでも尚、南インドに強い縁があったから行っていた。
 まあ、その話は置いといて・・・。
 

3,“ナマステ”から“ジュレー”へ

 6月初旬。ラダックの観光シーズンピークにはまだ早いと聞いていた。同じ飛行機には多少の外国人観光客もいたが数えられるほどしかいなかった。ほとんどの人は帰省した地元の若者か、家族連れインド人観光客か、カシミール出身っぽい人たちばかりだった。
 飛行機を降りた瞬間、私はラダックの大地に初めて降り立ち、初めてラダックの空気を吸った感動に酔いしれた。
 あ~、インドなのに別世界。外国(インド以外)に来たみたい!
感動もつかの間、すぐに小さな空港の建物に入り、預けていた荷物が出てくるのを待たなければならなかった。ようやく来た自分の荷物を手に、ていよいよ外へ!と思っていたら、まだやることがあるらしい。何やら書類を書けという。ラダックに入るのに外国人は必ず書かされるのだろうか。私はささっと書いて荷物をかかえ出口へと向かった。
 さて、私の迎え人はいったいどこにいるのだろうか・・・。

 よく目を凝らして見てみると、出口のドアからこちら側に入らんとばかりにピッタリ一番前に立っていた見覚えのある青年、それがギュルメットだった。もともと大きな身体の彼は、白っぽいフカフカのダウンジャケットを着て、身体は二倍に膨れており、頭にはニット帽をかぶっている。よく見ると手にはもう一つジャケットを持っていた。彼の服装を見て、外の気温の低さが伝わってきた。そんな寒さの中を立って待っていた彼の目の前まで来た私は、開口一番笑顔でこう言った。
“ジュレー!”
 私たちは再会の握手を交わした。このラダックの基本的な挨拶“ジュレー”は、おはよう!であり、こんにちは!であり、こんばんわ!であり、ありがとう、さよならでもある万能な言葉だそうだ。
 彼はちょっとはにかんで微笑みながら低くかすれた声で応えた。
“ジュレー”。

 南インドで彼に会っていた時は、その土地に合わせて“ナマステ~”なんて挨拶していたけど、ここはラダック。早速、“郷に入れば郷に従え”で私はモードを切り替えた。
  いったい何時からこうして待っていたかと聞くと、ラダック人らしく、遠慮目に小さな声で言った。
 「・・・だいたい、1時間くらい待ってたかな。遅れないようにって考えてたら早く来ちゃって・・・。」
 「え~!もっとゆっくり来ればよかったのに~!」
と申し訳なく言う私に、問題ないよ、と言葉ではなく表情で応える。なんて、真面目な青年なんだ。21歳の純真な青年のおもてなしにすっかり感動していた。そして、これからしばらく、よろしく頼むぞ~!と私も心の中で言った。。

 日本語で非常に使い勝手のいい「よろしくお願いします!」に匹敵する言葉はヒンディー語にはない。まして、ヒンディー語的会話や人間関係には、「ありがとう」の連発とか、「ごめんなさい」はありえない。そのヒンディー語的人間関係に私は自分を慣らしてきたつもりだが、それでも日本人である私は、必要以上にお礼をしたり誤ったりを無意識で言っているのは否めない・・・。まだまだ修行が足りない。

 ギュルメットは同じ村の人からバイクを借りて迎えにきてくれていた。朝日が差込む早朝のラダックを、いきなりドライブすることになってご機嫌な私。彼が手に持っていたもうひとつのジャケットは、バイクに乗って風を切るからと、私の為に持ってきてくれていた。
 “も~う、気がキク~!”と、心の中ではニヤニヤしつつも、再会したばかりの私たちはまだちょっとぎこちなく、おどける風でもない感じだった。まして、彼よりだ~いぶ歳上の私としては、若い青年を前に“大人の威厳”を保つ必要があるとクダラナイ見栄をはっていた。どうせすぐ、そんなものは崩れるのであるが。

 バイクは眩しい朝日を浴びながら、風を切って走っていく。ヘルメットもかぶらないで後ろに座っている私ははじめてのラダックの景色を存分に楽しんでいた。
 空港から彼の住むストックは約16kmくらいはあるだろうか。30分くらいかなと言っていたが、できれば寝不足のこの身体に温かいチャイをのませてやりたい。家まで行ったらチャイにありつけるだろうな~、なんて淡い期待をしていた。そうだ、チャイで温まりたい!
 でも、この思考はまったくインド的なんだとハッとする。何故ならばここはラダック。もうバター茶の文化圏にいることを改めて思い出した。大好物のチャイは飲めないのかなぁ・・・。と、ちょっと残念な気持ちになっていた。

 バイクには私たち2人の他に、私の大きなバックパッグやらお土産やらのサブバッグも上手に乗せて走らせている。ギュルメットは街を通り過ぎながら、南インドで勉強している仲間の家があったりすると、ここがTの家だとか、Aの家だとか教えてくれるので、え~、そうなんだ~!と、いちいち興奮していた。彼らは毎年帰省するなんてできない事情があるから、私ばっかりフラフラ遊びに来てしまい、申し訳ない気もしてしまった。

 載せている荷物はギュルメットにまかせて、私は初めて訪れたラダックの地形を把握しようと景色に気をやっていた。ラダックの建物の様相がどんなものであるのか、人々は何をしているのか、この目でしっかりと見るために目を凝らした。
 だが、街並らしい街並は正直見当たらない。商店のように見えるが、まだ開いていない。寒いし、まだ人々は起きていないのかもしれなかった。でも、インドの朝6時くらいなんて、牛乳屋の乳搾りや、新聞配達、チャイ屋、生活雑貨屋などはすでに動き出していた。それに比べたら何も動き出していない感じ。まるで西部劇に出てくる様な荒廃した街に、“ヒュ~”っと風が吹いている様な、そんな感じすらしている。緑もぜんぜん少ない。水気もない。ひたすら茶色い大地があり、そんなだだっ広い盆地の真ん中をひたすらバイクで走っていた。

 飛行機から見て思ったように、やっぱりここは乾燥した厳しい大地なのか。幹線道路らしい道を走りながら、その閑散とした感じに正直驚いていた。
 そんな私を察したわけではないだろうけれど、タイミングよくギュルメットは私に向かって言った。
 「途中でチャイを飲んで行こう」
 「OK!」
 そうそう、そうこなくっちゃ。まっすぐの一本道をひたすら走っていたバイクは、今までよりも商店らしき建物が続いている辺りで右折してバイクを止めた。
 この先には橋がかかっているらしい。橋の手前のこの開けた通りに、シャッターが下りている建物が何件も並んでいる。その中に2軒だけ営業中の店があった。ギュルメットは白っぽくてきれな店の方を選んで入っいく。何を飲ませてくれるのかと思ったら、ちゃんとチャイがあるという。しばらく待って出てきたチャイは、温かくて、甘くて、私の身体に染み込んでいった。

2, ヒマラヤ山脈上空 ~大地の乾き~

 デリーからレーへ向かう前日の夜のこと。久しぶりに会った友人と、お気に入りのインドビール“キング・フィッシャー”を呑んで、すっかり話が盛り上がってしまった。キング・フィッシャーは実際は発泡酒だから味は軽め。苦味好きな私だけど、インドビールの中では一番好きな味だ。
 久々にお酒を呑んだから、まあ勢いがついてしまい、そんなこんなで実際に寝りについたのは1時をまわってしまった。夜中の3時起床で身支度をして空港へと向かう予定だったから、仮眠程度にしか眠れない。まあ、こればかりは仕方ない。
 
 夜明け前の南デリーの街は静まり返っていた。友人の車でオートリクシャがいる所まで送ってもらい、値段交渉の末、オートに乗り換えた。レーに着いたら寒いのだろうと、それが気になって仕方なかったけど、デリーは“熱風”吹く酷暑のシーズン。どうしても厚着する気になれない・・・。飛行機を下りたら着れるようにと上着を手に持って搭乗した。

 飛行機はデリーを飛び立ってから、順調にはるか上空を飛行していた。それにしても、この寝不足状態。高山病には悪影響だということをどこかで読んでいたから、私は寝りにつくことにした。悪あがきだろうけど、少しでも寝不足を解消する為に。

 おそらく、30分くらいは寝ていただろうか。ふと目が覚めた。眠い目をこすりながら私は窓の外に目をやった。すると・・・。
 「なんだこりゃ~!」


 




眼下には見渡す限り、ただただ雪をかぶった山々が広がっていた。その美しさときたら、なんと言っていいかわからない程だった。この景色を見た私は一気に目が覚めてしまった。どっちの方向を見ても、地平線のかなたまで山しか見えない。そして、雲がうっすらと山々を覆っているのだ。到底、人が住む様なところではない雪山の山脈だけがずっと広がっていて、私はその上空を飛んでいた。
 この信じがたく、美しい景色を余すことなく目に焼き付けなければと、私は窓に顔をへばりつけて眺めていた。壮大な自然。そのスケールの違いに私は開いた口がふさがらなかった。これがあのヒマラヤ山脈やザンスカール山脈だろうか。とにかく興奮が抑えきれない。



 しばらくすると、山々にはだんだんと雪がなくなり、乾いた山肌が見えてきた。そして、徐々に飛行機の高度も下がってきて、山の表面の地層がくっきりと見えてきた。薄茶色の山の表面は乾ききっていて、一切の植物も寄せ付けないような厳しさを感じさせる。
 この山々が限りなく続くならば、人々はいったいこの山のどこに住んでいると言うのだろうか・・・。ラダックとはいったいどこにあるのだろうか。私の中には疑問すら湧いてきた。こんな乾いた大地は、はたして人間を生かしてくれるのだろうか。人間の住む環境がこの先に出現するとはとても思えないのだ。
 すると、突如として乾いた山の谷間に木々が生い茂っている部分が見えた。ほんの一部だが緑も見えた。うわっ!家も見える!まさか、こんな乾いた山々の中に人が住んでいるのか・・・。驚きを隠せない。いったいどうやって生きているんだ~!

 日本で生まれ育った私にとっては、大地の乾きというものを本能的にあまり知らない。常に雨が降り、山々には木々が生い茂り、川が水を運んでは大地を潤し、人々の渇きも潤す。これが“自然”であると認識していた。もっとも、雨季と乾季のあるインドにおいて、乾いた大地を見てきてはいた。でも、この高地のそれはちょっと違うものであった。今、私の眼下にあるのは、日本のそれのように潤った大地ではなく、あたかも乾いた山の中の小さなオアシスの様な小さな村?だった。この信じがたい光景を私はなかなか呑み込めないでいた。何故こんな土地に住んでいるのだろうか。人間なんてこの厳しい自然が相手では歯が立たないだろうに・・・。


 自然に従って生きていくということに憧れすら抱いている私ではあるが、その従うべき自然とは、時に厳しくもあるが、生きる者全てに食べ物を与え、喉を潤してくれ、しいては人の心も潤すものという“思い込み”が私にはあった。だから、このような乾いた大地を見て、はじめに感じたのは“恐怖心”であり、どうやって生きているのだろうかという疑問であった。この山々はどのようにして人々を生かしてくれているのだろうか。それが知りたくなった。

 眼下には相変わらず乾いた山々が見えるが、その山の標高は徐々に低くなってきた。そして、山々の向こうに突然、大きな平野が広がっているのが見えてきた。なるほど・・・。レーの街はここにあるのだな。確かに、ここだったら人間が生活できる大地だと思える。それにしたって、こんな巨大山脈を超えたところに、こんな盆地が広がっていて、そこに街や村があるとは、まだ信じがたいことだった。
 人間が生活できそう・・・なんて簡単に言っても、レーの街だって標高で言えば3500mはあるだろう。くどい様だが、富士山と同じくらいの標高にこんな平野部が広がっているわけだ。自然とはなんてダイナミックなんだ。私は驚きでいっぱいだった。
 
 飛行機はこの盆地に近づいたあたりで大きく旋回し始めた。平野部に見えてきたいくつかの広範囲の緑色の地帯。これは村のようだ。緑がある所とない所がはっきりしている。緑色は村で、乾いたところは誰も住んでいないように見える。
 いよいよ目的地のレーに着陸する準備に入った飛行機は急に高度を落としはじめた。一瞬気持ち悪くなる。うっ・・・。その時、比較的高い山々の谷間から裾野にかけて広がる一つの村に何故か心がが引き寄せられた。山の谷間に生い茂る木々、川や畑、家々がなんとなく見て取れる。

 「これが"ストック”だろう!」

 何故かは分からないが、その村の全容をこの上空から見たとき、私は、ここが自分の滞在する村“ストック”だろうと確信したのだった。初めて来た場所のはずなのに、何か懐かしい感じすらした。これは自分でもよく説明がつかない。美しさに魅かれたからなのか、はたまた遠い過去の記憶なのか・・・。私は、すかさず上空からその美しい地形を写真に撮った。

2007/06/05

1, ラダックに呼ばれて?

足しげくインドに通っていても、ラダックには行ったことがなかった。南インドのアディヴァシー(先住民族)の地に行くことが多かった私には、ラダックは距離的に遠いことと、季節によってはとてつもなく寒いから、旅の荷物が倍増することが気がかりだった。つまり旅の装備が全然変わってきてしまうことに、つい躊躇してしまっていたからだった。
  「荷物は軽く」 が旅の鉄則で、いつもGパンすら持っていかない私。軽くて薄く、そして乾きやすいコットン素材の服をいつも着ていたし、足元はいつもサンダルだった。
 とは言え、ひと口にサンダルと言っても、使い分けてはいる。“サルワル・カミーズ”(インド女性の民族衣装)などを着るとき用の“オシャレサンダル”と、山岳部や農村地帯用の“ビーサン”と言った具合に。まあ、こんなのどうでもいいではあるが・・・。
 こんな調子でインドを歩いていた私だったので、その防寒に対する衣類の重さや、荷物のかさ張り方が億劫になる要因の一つでもあった。

 でも、どうしてもラダックに行ってみたいという気持ちがおさまらなくなってきたここ数年、私はついにその重い腰を上げた!
 インドへ行くのにはじめてGパンを履き、皮のベルトを絞め、サンダルの代わりにスニーカーを履いたのだ。 3月初旬だったから、成田空港までは充分に普通の格好だった。でも、インドで飛行機を降りたその瞬間、Gパンでは蒸し暑さを感じる。でも、その暑さを差し引けば、他にこれといって問題はなかった。10年以上前だったら、Gパン姿というのはいかにも“外人です!”とアピールしているような雰囲気があって、まさに“いいカモ”になったけど、これはもう過去のこととなりつつある。最近では、すっかり近代化してきたインド。都会の若者なんかはオシャレさんが増えたからだ。  

 南インドにて、仏教徒の子どもの寄宿舎でボランティアをしていた私は、3ヶ月程の滞在中に、ラダックでお世話になれる地元出身の友人を数人見つけることができた。
 「自分も夏休みに帰郷するからラダックを案内するよ!」と、話はトントン拍子に進んだ。
 5月初旬、一足先に友人たちはラダックへと帰省していった。南インドから2等寝台列車に揺られながら三日間かけてデリーへ。そしてデリーからマナリまでバスで十数時間。そこから今度は車をチャーターして、ヒマラヤ山脈一帯を越えるのに20時間程度かかるという。
 南インドからの全移動を考えると、軽く1週間から10日はかかるタフな移動だった。陸路でラダックへ行くことも考えていた私は、それを聞いてすっかり気持ちが萎えてしまった。ここは南インドだし、今回は飛行機で行こうか・・・と。

 というわけで、高山病が気になりつつも、“楽”を選んで飛行機でラダックに入ることにした。まして、南インドで、予定より長く滞在してしまっていた私は急に焦ってきていた。
 ダメだ…、よく分からないけど、早くラダックへ行かなければ・・・!何にせき立てられていたのかは分からない。だけどそんな気持ちになった。だから、思い切って予定を早めてラダックへと向かうことにした。  バンガロール経由でデリーへ。デリーからレーという道のりだ。途中のデリーでは友人との再会も予定していたが、それもつかの間、一泊だけして翌日には飛行機に乗った。
 6月6日の早朝、初夏のラダックへ向けて。

2007/06/04

はじめに dil to ladakh mein (ココロはラダック。)

 インドには、さまざまな魅力があるのですが、残念ながら、一言でそれが何であるのかを表現することは難しいことです。
 よく、「インドの何がいいの?」という質問を受けますが、いまだに躊躇してしまうのは、あまりにも複合的な魅力があって、一言に集約して伝えることはできないからなのでしょう。

 そもそも、“インド”って何なのか・・・。
たまたま、“国”としてひとつにくくられたインドを考えれば、そのように理解することはできるのですが、行政上のくくりでは、地理的にも、言語的にも、宗教的にも、その他さまざまな要素を考えても、地域によって違いすぎるので、一つの国であることすら不思議に思えてきます。
 特に、最近私が訪れたカシミール州のラダックなんて、ここはインドなのかと滞在中に何度も思ったほどです。確かにヒンディー語(ウルドゥー語と言ってもいい)が通じて、ヒンディー映画やドラマを見て楽しんでいるラダックの人たちのことを考えると、ここもインドなのだと思えるのですが、ヒンドゥー世界のいわゆる“インド”とは別世界です。
 ですので、そんなあらゆる文化を持つインドを、「私の経験」というコンセプトでひとくくりにして紹介することもできるのですが、いささか乱暴に思えてくるほど違うものなのです。ですので、ここで私のラダックでの経験を“インド”としてくくってその中に位置づけるのはやめました。ここでは、私がラダックで経験した生活をメインに紹介し、その中で見えてくることを読み手のみなさんに楽しんでもらいたいと思います。
 
 とはいっても、既に私の心は半分は日本人、もう半分はインド人!?と言っても過言ではありません。山ほど存在するインド好きの一人ですがディープな方でしょうか。でも矛盾しているようですが、前述の様に、何がインドなのかというのはひと言では説明できないと思っているので、“半分インド”と言ったところで何がインド的なのかははっきり言えません。だったらこんな表現は避けるべきですが、インドへの愛ゆえ、いつの間にかあらゆる意味でインド人のようになってしまったと言えば分かりやすいでしょうか。
 
 そんなインド好きの私が、渡印経験12年目にしてラダックへ行きました。そこは、本当にインドとは思えないチベット世界で、チベット仏教と山の奥~の荒涼とした乾いた大地の世界でした。
 私は、そんなラダックへ行くのに大した情報すら持っていませんでした。近年話題の「懐かしい未来」という本からの視点、つまりNGOが昨今のラダックのグローバリゼーションを懸念した語り口での視点というもの以外には、ずっと以前に読んだ藤原新也の「西蔵放浪」など、これら以外にはこれといった知識を持ち合わせてはいませんでした。(注:とは言っても「懐かしい未来」も事前には読んで行ってません。ハハハ。)

 地図だってインド政府観光局が出しているインド全図しか持っておらず、一番栄えた街であるレー以外には、自分が訪れる予定のストックという村すら載っていない状況。カシミール州の拡大部分を見ても、カシミール州の西南に位置するジャンムーや、西のシュリナガルまでは国道やそれに近い幹線道路が走っている都合から、地図上は地名が書かれていてにぎやかなのですが、同州の東に当たるラダックについては、“その他の道路”として細~い赤い色で記された道が一本だけ、ヒマーチャルプラデシュ州のKULLU辺りからKYELANGを通ってレーに至っているだけなのです。その道をレーからまっすぐ東へ行くとさっきのシュリナガルに至るという具合なのですが、その途中も特にいくつもの地名はありません。この地図の有様はインドにおけるラダックの位置づけをうかがい知るようなもなのかとさえ思えてきます。

 でも、実際にラダックへ行って見たら、その地図で言う“その他の道”上にどれだけの村が存在するか、どれだけの人々の生活が存在するかがよく分かりました。また、レーの街に着いてから、高山病が落ち着いた頃に、本屋に立ち寄り地図を探してみたら、「トレッキング・ルート」というくくりでならば、あるはあるはラダックの地図。立派なのがいくつもありました。そうなのです、本当に山の山の中なので、そういう明細地図のようなレベルだったら、ちゃんとあったのです。やっぱりインドは広いわけです。
「インドにない物はない」その昔、インドに初めて行くときに、高校時代の恩師が言ってくれた言葉を思い出しました。

 そんな訳で、事前準備をあえてしなかった私が飛行機を降りた瞬間、一人の青年のつてだけを頼りにレーの街のゲストハウスではなく、人々の生活に入って行って経験したラダックでの生活。こんな程度ではラダックやチベット文化のその筋の方々が読むと、素人じみていてまどろっこしいかもしれません。
 それでも、インド好きが高じてヒンディー語で人々と触れ合っていることによる人々との独特の距離感。また、何より私のインド経験で共通している「指定部族(セジュールド・トライブ)」とされているインドの少数民族の人々との交流であること。(ラダックも1990年代に指定部族になった)といった具合に、インドの少数民族の地を訪れては人々と触れ合ってきた私の経験をもってラダックを見たら、こんな風に見えるんだという視点でこの“ラダック生活経験記”を読んでいただければ幸いです。
 

 そして最後に、時に筆不精な私が友人・知人への近況報告を怠ってしまうことへの対策としても、ブログを利用したく思います。今までは、あまり他の人のブログすら見ることが少なかった私が、今更ながら自分のブログを立ち上げるなんて、自分でも驚いてしまう訳ですが、このように、旅に出た私を心配してくれている人たち、また、その土地で何を見ているのか感心を寄せてくれている人たちへ感謝を込めて、インド亜大陸を少しでも、一部でも紹介すべく、ラダックを書き綴って行きたいと思います。